教育合同・西成合同が中心となって行っている震災支援活動報告 
大阪全労協では大阪電通合同労組が中心となって行っている活動と、大阪教育合同労組・西成合同労組が中心となって行っている活動があります。
主に大阪電通合同労組は宮城県東松島市東名地区、大阪教育合同労組は岩手県遠野地区で支援活動を行っています。
今回は大阪教育合同労組・西成合同労組が行っている震災支援活動を紹介します。

−「物資より人を・・・・」 復旧の決め手は人! ― 宮城県東松島市東名ボランティアレポ

  宮城県東松島市の新東名(とうな)にある宅老所「すみちゃんの家」は要介護老人に介護サービスを提供する事業を行っている。「宅老所」とは、介護ビジネスと別次元でボランティア精神を元に地域で老人介護事業を展開しているNPO法人である。

 「すみちゃんの家」は津波の直撃を受けた後、一旦閉所を決めて職員30人を解雇した。被災1ヵ月後に全労協の支援隊と偶然めぐり合い、事業再開を決意して現在復旧に励んでいる。

 他の養護老人施設が壊滅した東名地区で宅老所「すみちゃんの家」は介護を必要とする親を抱える家族から1日も早い再開を望まれている。地方において30人規模の雇用の場は「大手企業」でもある。全労協は、地域住民の要望に応えるとともに被災地における雇用を回復させるため、被災1ヵ月後の4月なかばから宅老所「すみちゃんの家」の全面支援に乗り出した。

 私たち8名は5月13日、1週間の予定で大阪全労協が派遣する第3次緊急支援隊として東松島市新東名へ向かった。

  「家の中で人が溺死する・・・・・」

 新東名は路面から2.5bまで水没した。東名は標高2bに位置するので平均海面から4.5b水位が上がったことになる。

 宅老所のすぐ先にある平屋建ての家に夫婦2人が住んでいた。そこへ津波が襲い、たちまち背が届かなくなるまで水位が上がった。たまたま外から流れ込んできた靴箱に?まって夫婦は助かった。その裏手にある二階建て。津波警報が出て子どもを二階に避難させ、舅と姑を両脇に抱えて二階へ上がろうとした主婦は津波に襲われた。流れてきた畳に?まろうとした時、腕が離れて舅と姑が家の中で溺死した。宅老所から1.2qの所にある野蒜小学校体育館。避難所に指定されているため大勢の周辺住民が避難してきた。この体育館で200人が亡くなっている。流れ込んできた水で人が渦を巻いていたという。水が引いた後、助かった人は遺体をまたいで避難した。こんな話を山ほど聞いた。凄惨な体験がもとで「家に帰るのが怖い」と、2ヶ月たっても多くの住民が戻ってきていない。

 「住み続けるからには『自己責任』」

  「すみちゃんの家」の北方向にあるYさん宅。解体されることになったが「あのまま解体されるのはかわいそう。せめて位牌を捜して他所に避難しているYさんに届けてあげたい」というすみちゃんの依頼を受けて、4人でYさん宅に向かった。玄関を入ったところで私たちは言葉を失った。薄暗い部屋の中で畳・障子・布団がうず高く重なり泥まみれになっている。箪笥・水屋はみな倒れ、仏壇も扉が開いたま柱の間に挟まってびくともしない。何とか位牌を2つ捜し出してYさん宅を後にした。その夜、Yさん宅の状況を話すと、すみちゃんは「最初はあれが普通だったんだよ」。

 被災者が再建を断念し、建物の所有権を放棄すれば解体撤去は行政がやってくれる。しかし、その建物に住み続ける限り、泥出し・瓦礫の撤去は自己責任に帰される。泥・瓦礫を道路まで出さない限り行政はもって行ってくれない。東松島市の統計では一世帯あたりの人数は平均2.8人。震災当初、ほとんどの被災者は途方に暮れていた。ボランティアの手助けなしに家族だけで再建することは不可能なのだ。

 「物資は充足、人手が足りない」

 少なくとも野蒜・東名地区で物資の不足はない。誰が何を欲しているか行政が把握できないため物資が行き渡っていないのが現状だ。物資は余るほど現地に届いている。賞味期限が切れた食料品は廃棄されていると聞く。しかし、個人の住宅を復旧させるにはあまりにも人手が足りない。一度ボランティアが入れば次はいつになるかわからない。被災者にとって再建の目処がたたない。

 5月20日、わたしたちが帰阪する前日。JR仙石線のレール撤去が始まった。ところが、大破したトラックが撤去されたことを除いて、「すみちゃんの家」から見える風景はこの1週間なにひとつ変わっていない。 「すみちゃんの家」の職員U子さんの言葉。「津波のあと、家の中の惨状を見てすっかり勇気が奪い取られていく思いがした。しばらくしてボランティアが入り、泥・瓦礫が見る見る間に撤去されていくのを見て勇気がわいてきた」。U子さんの言葉に私たちは逆に励まされて東名を後にした。

 

  5月16日現在の東名駅 2601 県道バイパス下の民家

−家屋の泥出し、田んぼのガレキ撤去−

 5月15日に遠野市に行き、実質3日間のボランティア活動をしてきました。

 毎朝7時半に遠野まごころネット本部前に300人ほど(ほとんどは横の体育館に宿泊、食糧は自分で調達)のボランティアが集まり、派遣先ごとに班分けしてバスで送り出されます。その規模の大きさに圧倒されました。様々な団体・個人が、遠くは倉敷市・徳島市・山口県などから参加していました。  私が派遣された被災地は大槌町と陸前高田市。仕事は、破壊を免れた家屋の床下にたまっている悪臭のヘドロをはがして土嚢に入れ、外に運び出し、最後に石灰を撒く仕事。もう一つは田んぼにたまったガレキの撤去でした。

 しかしガレキはどこまでも続いていて、人間のやる気をこわしていくようでした。ガレキを全部撤去しても、田んぼにしみこんだ海水の塩分や小さなガラス破片などを取り除かないと、農地としては使えない。おじいさんの高台の家は、屋根より高いところまで津波がきて流されました。やっとのことで裏山に逃げて助かったおじいさんは、1年すれば塩分も流れまた使えるようになると言っていましたが、私としては本当にそうなることを祈るばかりでした。 

 私たちに宿泊所と布団を用意し、手作りの山菜料理を食べさせてくれたのは、ボランティアを支えようという「共生ユニオンいわて」の人たちの考えによるものです。本当にありがたかったです。帰りの高速料金は、ボランティア証明書(社協発行)を持って国土交通省出先機関に申請したら無料になりました。

  齋藤郁夫(吹田支部)

−5月連休のボランティア活動−

 遠野まごころネットと結びついた救援活動  

 5月連休4泊5日で、大阪全労協メンバー5名(教育合同2名)が岩手県に被災地ボランティア活動に入った。大阪からは車で15時間、「コブシ咲く北国の春」の遠野市。遠野市ボランティアセンター(NPO遠野まごころネット)がボランティアの受入と活動を調整し、宿泊等の面倒も見るため、連休中も県外から600名を超える参加者があった。  

 遠野に全労協の拠点  

 遠野市は海岸まで1時間。この地の利を生かして、ボランティアを連日、陸前高田、大槌、釜石にバスで送迎する。共生ユニオンいわて(全労協全国一般)はセンターに隣接する公民館を借り上げ、組合員ボランティアの宿泊・食事の世話をする。そこで京都、東京のメンバーに合流した。  

 ボランティア活動の多様さ  

 遠野まごころネットは、被災地のニーズを毎日調査して、必要人数を派遣する。毎日の朝礼で、作業内容と人数が発表される。また、ボランティア活動の心得も訓示される。「被災地現地のニーズは毎日変化する。ボランティアが美化されてはいけない。ボランティアにはノルマはない、やめたくなったら引き上げること。また、3つのA−あわてない、あせらない、あきらめない−でやること」という具合だ。

  

 私たちは、サンマ処理、家屋泥出し、避難所でのハンドエステを行った。これ以外にも、学校等の片付け清掃、物置等の解体などがあるが、大工(日曜も)経験者が優先され、また団体登録ボランティアが先に割り当てられる。それ以外が一般募集となり、人気(?)作業は先着順となる。それでも「被災地を支援する気持ちでもって、少々の不満は収めてほしい」とのまごころネット代表の言葉に参加者は了解するのである。過酷を極める作業は、サンマ処理である。  

 陸前高田の水産加工場が津波に襲われ、冷凍サンマ数万トンが山裾まで持って行かれた。この腐臭を放つサンマ処理は、どうしても希望者が少ない。そんな中、全労協メンバーは率先してサンマ処理に出かけた。「山でサンマを捕るのは初めて」と軽口をたたけるうちはましな方で、向こうの方では嘔吐しているボランティアもいる。服と長靴はサンマの臭いがしみ込んで落ちない。3日目の朝礼で、「皆さんのおかげでサンマ処理のめどが立ちました。これからサンマ処理はありません」と発表されると、一斉に拍手が起きた。  

 家屋泥出しは、津波に流されなかった地区で泥まみれになった家屋の掃除である。われわれが訪れた家では、52歳の男性が亡くなっていた。「葬儀に追われていて掃除などできなかった」と老いた母親が寂しそうに話した。作業中も、親戚の方だろうか花を持って訪問してきていた。その泥出しは10人がかりで2日かけて終わった。  

 5月6日、ボランティアセンターには藤原紀香、大黒摩季、武蔵が激励に訪れた。

 

 避難所生活の限界  

 避難所の生活は限界に達している。しかし仮設住宅はまだまだ建たない。仮設に適した土地が少ないせいもある。また、都市部とは異なる地域性もあるようだ。この地域性は、ハンドエステをしながらあれこれ話してくれた事柄から感じることができた。ハンドエステには3日間で60人を超える女性たちが来た。

 この避難所で世話係をしていたのは、津波で倒壊した会社を解雇された若者だった。臨時町職員に雇われ働いているのだが、雇用や保険関係の詳細は知らされていなかった。町長はじめ職員の4分の1が亡くなった大槌町だから無理もないかもしれないが、労働関係の資料を渡し、共生ユニオンを紹介しておいた。その若者が疲れのせいか、点滴をしていた。何しろ、避難所の世話は大変だ。例えば、洗濯機が3台寄贈されたが、「事情があって」使用できないという。そのため、洗濯している手は荒れている。テレビも5月連休まで届かなかった。やっと届いたテレビは19インチ、地デジ対応だが電波が来ていないので、アナログで見ることになる。他方、マスコミや大学研究者が次々と調査にやってくる。これに天皇や首相が来られてはたまったものではない。

 息の長い支援を  

 大槌町の隣の山田町にも手が付いていない地区があった。  

 被災地支援ボランティア活動は、変化するニーズにあわせて、息長く行うことが肝要だ。全労協は岩手、宮城、福島とそれぞれのニーズにあった支援を続けることになる。遠野には、教育合同から5月中にさらに2グループが入ることになる。宮城県に入る組合員もいる。  

 震災・津波・原発被災支援活動には、優しさと力強さを持った労働運動がもとめられている。  

 山下恒生(副執行委員長)

 

 ユーミンの大槌エステ日記  

 GW、車で走るも遠野はホンマに遠い。  

 1日目のボランティアセンターは、何ができる、何かしたいという老若男女のパワーでムンムンして心強かった。ガレキ処理!の声に、ハイ!と手を上げて仕事をもらっている。エステ業の私は、顔もという要望は衛生面で無理なため、ハンドエステで避難所へ。マイクで呼びかけると、カーテンの向こうからチャレンジャーのおばちゃんが出てきた向かい合ってくれた。その様子を見て、私もと並んでくれた。  

 サンマ工場で曲がった指、荒れた手、飲み屋さんの白い手、一人一人の女の手は、だまって人生を語っていた。  

 2日目も来てくれた、散髪屋をやっていたという70代の女性が前に座る。過去の話をボソボソ始めた。素足で百姓仕事をさせる農家には嫁に行きたくなくて散髪屋になりたいと夢を描いた。中学に全うに行けなかったため、卒業証書がない。だから散髪屋にはなれない。お客さんに、見たこともないテキストの漢字を教わりながら努力する彼女のために、中学校の校長が試験官を説得に出向く、「この人の学力は間違いない、一生がかかっている」と。無事、試験に合格した彼女は散髪屋になった。被災してもシャンと小綺麗に身繕いした彼女は、そんな風に力強く生きてきた。自信のある大きな手を広げてくれた。しかし、全ては海に流された。もうダメだな、とそんな彼女に言わせる大災害。手から手を伝わる悲しみとあきらめ。言葉は出なかった。  

 男の人は、オレの仕事は・・・と後が続かない。生きていくことは仕事と重なり合うはずなのに、今は一日中働き盛りの体をストーブの前であたためているだけ。悔しいだろう、あせるだろうに。  

 たっぷりのクリームをすり込み、ツボを押し広げ、そっと揉みほぐす。「気持ちエエもんだな」「肩もんでもらってるみてぇだ」と優しい言葉をかけてくれる。

 「今8人の家族が死んだ話を聞いた、今日はよく涙が出る」とポロポロ涙をぬぐう手、「いっそ全て波に持って行ってほしかった」と泥に染まった手。「大阪ってどんなとこ?中三の子がいるから働かねば」と洗濯に明け暮れる若い母親の手、どの握りこぶしの中も、悲嘆、憤り、苦しみ、絶望。しかし、開いてくれた手は、温かく生きている。うすピンクのネイルを塗ると、桜色の爪に春が来たと一瞬の笑いが起きた。おじいさんも「オラもやって!きれいだ」と天井の光をうつし、「おどるか」と手をくねらせた。化粧水を顔に塗らせてとやってきた男性もいた。  

 エステには参加しなくても、バナナやおにぎりを分けてくれたり、流された工場で作っていた海苔を食べてと持ってきてくれた。最後に「ポン菓子をつくってきたから」と持ってきてくれ、握手を交わした。  

 被災された方々が、柔らかな布団で腰を伸ばし、台所で山海の恵みを料理できる日が一日も早く来ることを願って3日間のハンドエステを終了し、後ろ髪引かれる思いで当地を後にした。  

 追記。50代後半にさしかかる私は、大きな優しさを頂くとともに、生きるとは!!を目の当たりに教わり、また一つ強くなった自分を感じた。ボランティアは私自身のためのものであったんではないかと振り返る。当地の方々に感謝の思いが日々深くなっている。