-大阪から過労死をなくすために−
過労死防止大阪センタ−結成総会  3・13報告

                     言いたい放題・もの申す 迷惑通信  大阪電通合同労組 平出正人さんより転送

 

2014年6月20日、「過労死等防止対策推進法」(略称:過労死防止法)が成立し、同年11月1日に施行されました。
同月20日の大阪における「過労死防止啓発月間シンポジュウム」には大阪労働局、大阪府の後援、労働3団体(連合大阪・大
阪労連・大阪全労協)からも挨拶があり141名、41団体の参加がありました。

2015年3月13日、過労死防止を願うすべての個人と労働組合、市民団体、経済団体に呼び掛けて、国や自治体とも連携し
て、過労死に関する調査研究の推進、教育・啓発、救済・予防に取り組むための過労死防止大阪センタ−が設立されました。結成
総会参加者は137名(立見あり)でした。

過労死がない社会を実現するためにこの活動に、立場を超えて多くの人びとが賛同し、共同していただけることを心から呼びか
けます。大阪から、そして日本から「過労死」をなくす取り組みを大きく進めていきましょう。

 
「過労死」が国際語「karoshi]となってから20年以上が過ぎました。
  しかし、過労死はなくなるどころか、過労死・過労自殺(自死)寸前となりながらも
  働き続けざるを得ない人々が大勢います。

 
憲法第27条 すべての国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。
2 賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める。3 児童は、これを酷使してはならない。

 27条は勤労の権利と義務をうたっています。でも、つらいことを我慢し続け、身体や心が壊れるほどの労働を求めているわけ
ではありません。「人は自分自身、家族、社会のために働く」という意味をもつのではないでしようか。

 


 
 

 

 

命こそ宝    中学校三年 辻田真弘君(2000年3月 父親死亡)

 僕は、父を小学校に上がる前に、亡くしています。父は過労自死でした。
父は、市役所で働いていました。市の文書を扱う大切な仕事をし、係だけではけっしてできない大きな仕事を任され、毎日、
仕事の相談に来る職員が後を絶たず、それにも父は親切に答えながら、毎日16時間以上仕事をしました。胃潰瘍になりま
したが、仕事をたくさん抱えた状況では休む余裕もなく、通院しながら土日も出勤していました。議会に提出するための資料
を必死で作り上げた時、あまりの忙しさに、たった一つ部下に任せた所に、間違いを見つけました。そのまま条例になってし
まうことは、大きな問題です。でも、やり直す時間はない中、心身ともに追い込まれて、父は命を絶ちました。
 最後に、父は、11通の遺書を残しました。
僕がこの遺書を初めて読んだのは、小学5年生になる春休みのことでした。多くの人の支えの中、父の死が公務災害だと認
められた時、初めて母から見せられました。「真弘様 親らしいことが、何も出来ず 許してください。
貴方の無邪気な顔をみていると、本当に疲れがやすまりました。先週の発表会を見に行きたかった。お母さんから、貴方が、
ものおじせず、堂々と話しているのを聴いて、本当にうれしかったです。笑顔の真弘の顔が忘れられない。こんな幼い子を残
して おとうさんは・・・どうか、お母さんの言うことをよく聴いて、助けてやってください。本当に御免なさい。」 ぼくは、これを読
んだ時、涙が溢れてきました。こんなに僕たちを愛してくれた父がどうして死ななければならなかったのだろうか。僕は自分の
部屋で、思い切り泣きました。

 5年生になったある日、担任もいるクラス全員の前である子が、「辻のお父さんは自殺したんか?」と聞いてきました。僕は、
事実だから、「そうや。」と答えました。すると、僕も知っているという声があちこちで起こってきました。それから後のことは、
僕はもう覚えていません。思い出さないようにしてきました。父のことを知らず、自殺だという事実だけが、広がっている。僕の
大好きな父を変に評価されることが耐えられない。あの時の言葉には、すごく冷たさを感じるものがありました。

 父は、心身ともに過労し、うつ病になってしまいました。こんな働き方をしたら、誰だって、倒れてしまいます。父は市民のため
に、いい法律を作りたいと、いつも勉強し頑張っていました。条例になってしまうとどんなに悪いものであっても改正するために
は、人も時間もすごく掛かること、条例は、市民の命にも繋がることを母に語っていたそうです。まじめで、責任感が強く、優しく、
頼りがいがあった父です。父は、普通の人の2倍も働きました。

 父と同じ仕事をする人が、もう一人いてくれたら、父は死にませんでした。公民の教科書に、労働基準法がありました。この法
律が守られていれば、父は死ななかったと思いました。父と一緒にすごしたのは、わずか、6年間です。父が突然僕の前から居
なくなるなんて考えてもいなくて、父に甘えていました。あのままずうっと、家族の生活が続いてくれていたら、僕たちは幸せだ
ったのに。あの日を境に、僕たちの生活が変わってしまいました。ずっと、家でいた母は生活のために、働きに出るようになりま
した。生活も苦しくなりました。母も頑張っていましたが、疲れ切り、どうしようもないさびしさに、包まれ、僕たちに、「お父さんの所
へ行こう」と言いました。僕達の強い反対で、母は、自分を取り戻してくれました。一歩間違っていたら、僕達は、今、生きていませ
んでした。
ぼくが、小学1年生の時、詩を作りました。

『《僕の夢》
大きくなったら、ぼくは博士になりたい。
そしてドラえもんに出てくるようなタイムマシーンを作る。
ぼくはタイムマシーンにのって
お父さんのしんでしまう前の日にいく
そして「仕事に行ったらあかん」ていうんや』

 三年前、大阪人権博物館から、この詩を展示させてほしいという連絡があり、今、労働者の権利というところで常設展示され、小・
中学生の学習教材にもなっています。この夏、僕は、朝日新聞やテレビ大阪の取材を受けました。父の死と向かい合うことは、辛いで
す。でも、僕達のような悲しい思いをする人が増えてほしくないので、取材を受け、今回は作文にも書きました。

僕は、仕事のための命ではなく、命のための仕事であると考えます。
命こそ宝です。過労死・過労自死というものがこの世の中から亡くなってほしいと強く思っています